宮本勢助と芥川龍之介

 芥川籠之介に、『点心』という身辺雑記風な随筆集がある。これは、書名を中国料理などに添えられる茶うけの菓子の名から付けたもので、はじめ、雑誌『新潮』の大正10年2月号と3月号に掲載され、のち、翌年5月に出版されたものである。
  との中に次のような一文がある。

    む   し
  私は「龍」と云ふ小説を書いた時、「虫の垂衣をした女が一人、建札の前に立つてゐる」と書いた。その後或人の注意によると、虫の垂衣が行はれたのは、鎌倉時代以後ださうである。その証拠には源氏の初瀬詣の條にも、虫の垂衣の事は見えぬさうである。私はその人の注意に感謝した。が、私が虫の垂衣云々の事を書いたのは、「信貴山縁起」「粉河寺縁起」なぞの画巻物によつてゐたのである。だからさう云ふ注意を受けても、剛情に自説は改めなかつた。その後何かの次手から、宮本勢助氏にこの事を話すと、虫の垂衣は今昔物語にも出てゐると云ふ事を教へられた。それから早速今昔を見ると、本朝の部巻六、従鎮西上人依観音助遁賊難持命語の中に、「轉(うた)て思すらむ。然れども画牟子を風の吹き開きたりつるより見奉るに、更に物不思罪免し給へ云々」とある。私は心の舒びるのを感じた。同時に自説は曲げずにゐても、矢張文献に証拠のないのが、今までは多少寂しかつたのを知つた。 (二月三日) (岩波書店刊『芥川龍之介全集第四巻』)

 実は、ここに出てくる宮本勢助とは、わたしの祖父であるが、この「牟子垂衣(むしのたれぎぬ)」をめぐる芥川と勢助との交渉は、現在、わたしの手元に保管している芥川からの勢助宛書簡五通を見ると、さらに、この間の経緯を明瞭に窺い知ることができる。
  元来、祖父勢助は、日本画家、特に歴史画を志し、小学校を卒業と同時に、美術学校予備門に進んだが、1年後の明治31年、15歳の春には、歴史画の大家小堀鞆音の門下に転じ、いよいよ画道に精進した。同門には、後年、日本画壇で活躍する今村紫紅をはじめ、安田靭彦・磯田長秋・山川永雅など若い画家たちが集っていた。しかし、勢助は、明治37年、応召入隊後に病気となり、まもなく除隊された。この間、歴史画を描くためにした有職故実や風俗の研究が、次第に画を離れて興味の中心となっていった。やがて、明治41年、勢助25歳の年に、摺衣(すりごろも)の筆名で、「合点首」の1篇を『集古会誌』の誌上に発表し、本格的な風俗史の研究に踏み出していった。以後、昭和17年、59歳で歿するまでの30数年間に、風俗史・服飾史・民俗学に関する論考200篇を残している。
  芥川と交渉を持った大正9年から10年の頃の勢助は、柳田国男らの雑誌『郷土研究』や江馬務らの雑誌『風俗研究』に論文を執筆するかたわら、各地への採訪調査も行なっており、従来の風俗史や服飾史の研究にあきたらず、民俗学的方法や民族学的比較研究の方法を導入するなど、新たな研究に意欲的に取り組んでいる。勢助にとって、この頃は、学者として、一つの充実した時期にさしかかっていたといえよう。
  先にも記したように、芥川からの勢助宛書簡は、都合5通で、いずれも毛筆書きである。日付は、次の通りである。
  (1)大正9年5月3日
  (2)同   6月24日
  (3)同   10月1日
  (4)大正10年2月19日
  (5)同    3月4日
  これらの書簡を見ると、(1)から(3)は、訪問延引に対する詫状といった体のもので、(4)と(5)は、訪問した後の礼状といったものである。その内容から考えると、芥川は、友人であり、勢助とも交流のあった画家の長野草風の手引きによって、大正9年5月3日頃、池之端七軒町の勢助宅を訪問して、「牟子垂衣」について教示を受ける約束になっていたらしいが、芥川がカゼなどをこじらせて、だんだんに遅れ、結局、年を越して、翌大正10年2月初め頃、勢助の下にやって来たらしい。
  今、大正10年2月19日付の書簡を見ると、

拝啓
先日は参堂御高話を伺ひ難有く御礼申上げます

 と記しているが、先に引用した『点心』の「むし」の文末に「二月三日」とあるところから、2月1、2日頃、2人は、池之端の勢助宅で、初めて話を交したものと思われる。勢助38歳、芥川は30歳であった。
  勢助の記した『牟子の追憶』という手控えにも、

今日記がないのでこれが何月何日だったかはっきり分らない。其日に例の牟子の話が出たのであった。

 と記している。
  芥川も先の書簡の続きに、

むしの件帰宅後しらべて見た所博文館の本にもありました 金尾丸も金尾丸とあります 私なぞの本の読み方は筋ばかり気にする為疎未になるのだと思ひます 如何にも情ない気がしました

 と記している。ここにいう「博文館の本」とは、大正4年刊の池辺義象編『校註国文叢書第16・17巻』の「今昔物語」2冊のことで、芥川は、この博文館本で、「従鎮西上人、依観音助遁賊難持命語」(今昔物語集巻第16、第20)の話を調べ、「牟子」の典拠を確め、「金尾丸」についても納得した経緯が窺われる。この書簡の書きぶりや『点心』の記述には、市女笠などに縫いつけてたらした「牟子垂衣」の使用年代について、これまでの自分の不安を明らかにしたいと、在野の一研究者に教えを乞う芥川の真摯な態度と、その疑問が打ち払われた喜びが率直に表現されていて爽やかである。
  なお、この書簡から、芥川がしじゅう手元において愛用していた「今昔物語集」のテキストは、博文館本であったことが知られる。すでに、故長野甞一博士がその御著書『古典と近代作家−芥川寵之介−』で、ご指摘の通りである。


  わたしは、この後、芥川が1、2度、七軒町の家にやって来たように、祖母つね(勢助妻)から聞いているが、覚束ない。つねの話によると、芥川は、いつも和服で、白い象牙のステッキを持ち、玄関先で頭を下げると、長い髪がバサッとたれ、それを指先で掻き揚げる姿がなんともいえず魅力的だったという。手土産は、きまって本郷「藤村」の羊羹だったと聞いている。

(執筆:宮本瑞夫)

 *「パピルス」14号(立教女学院短期大学図書館、1985年1月)に掲載したものです

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